仏崎観音御開帳
今日は7年に一度の、仏崎観音寺の御開帳なので、エッチャンと天ちゃんと3人で行って来ました。
観音寺に着くと、丁度参道を稚児行列が歩いて来るところでした(^^♪

そして境内に入ると記念撮影。その後法要が行われました。




僕たちは観音堂裏手の尾根上にある鐘撞堂まで登り、松本平(安曇野)を見下ろして帰ってきました。
この鐘撞堂には「平和の鐘」が吊るされており、1972年10月17日に大町市民を中心にした人々が浄財の寄進を募り、鋳造建立されたもので、「悲惨な戦争の再び起こることを阻止しいつ迄も平和であって豊かな人間優先の福祉国家の基礎をゆるぎないものにしなければな(平和の鐘建立の碑より)」らないとの思いを込めて建立されたのですね。
そして、この鐘撞堂の前の崖の上には観音像が置かれ、松本平の平和と安穏を祈っています。



仏崎観音寺は、仁科三十三番霊場札所めぐりの順路では32番目のお寺で、巡礼ご詠歌に「仏崎村の洞窟に仏像あり 身を捨てていらずば知らじ仏崎 法のりの窟いわやの深き心は」と詠われます。
創建されたのは室町時代と伝えられますが、その後武田信玄の攻略により焼失してしまいました。現在のお堂は江戸時代中期に建造されたものだそうです。
新潟県の糸魚川から長野県の松本・塩尻に至る塩の道は、糸魚川から大町まで急峻な道が続くので牛を使うのが一般的で、大町から南は馬を使っていました。
大町からは善光寺や鬼無里、戸隠方面に向かう道もあり、馬は交通や物流の重要な手段でした。
この寺は室町時代から馬の守護寺として知られ、農耕や交通手段、物流手段として馬を大切にする安曇野一円の人々から篤い信仰を集めていたといい、観音堂の屋根は馬の鞍を模した形だといわれています。
大昔、安曇野は広大な湖だったのですが、犀龍と泉小太郎の親子が水を堰き止めていた巨岩を切り崩し、安曇野を肥沃な農地にしたという、民話「竜の子太郎」の元話となった「犀龍と泉小太郎」の伝説があり、その後犀龍と小太郎はこのお堂の奥の斜面の中腹の洞窟に篭り、安曇野を見守ったという言われています。
コロナ禍前までは、毎年5月最終日曜日に観音橋南の高瀬川河川敷で「観光草競馬」が行われていましたが、元々は仏崎観音寺の奉納草競馬で、4月28日の縁日の草競馬には安曇野と水内郡一帯から馬と人が数多く集ったといいうことです。
観音寺に着くと、丁度参道を稚児行列が歩いて来るところでした(^^♪

そして境内に入ると記念撮影。その後法要が行われました。




僕たちは観音堂裏手の尾根上にある鐘撞堂まで登り、松本平(安曇野)を見下ろして帰ってきました。
この鐘撞堂には「平和の鐘」が吊るされており、1972年10月17日に大町市民を中心にした人々が浄財の寄進を募り、鋳造建立されたもので、「悲惨な戦争の再び起こることを阻止しいつ迄も平和であって豊かな人間優先の福祉国家の基礎をゆるぎないものにしなければな(平和の鐘建立の碑より)」らないとの思いを込めて建立されたのですね。
そして、この鐘撞堂の前の崖の上には観音像が置かれ、松本平の平和と安穏を祈っています。



仏崎観音寺は、仁科三十三番霊場札所めぐりの順路では32番目のお寺で、巡礼ご詠歌に「仏崎村の洞窟に仏像あり 身を捨てていらずば知らじ仏崎 法のりの窟いわやの深き心は」と詠われます。
創建されたのは室町時代と伝えられますが、その後武田信玄の攻略により焼失してしまいました。現在のお堂は江戸時代中期に建造されたものだそうです。
新潟県の糸魚川から長野県の松本・塩尻に至る塩の道は、糸魚川から大町まで急峻な道が続くので牛を使うのが一般的で、大町から南は馬を使っていました。
大町からは善光寺や鬼無里、戸隠方面に向かう道もあり、馬は交通や物流の重要な手段でした。
この寺は室町時代から馬の守護寺として知られ、農耕や交通手段、物流手段として馬を大切にする安曇野一円の人々から篤い信仰を集めていたといい、観音堂の屋根は馬の鞍を模した形だといわれています。
大昔、安曇野は広大な湖だったのですが、犀龍と泉小太郎の親子が水を堰き止めていた巨岩を切り崩し、安曇野を肥沃な農地にしたという、民話「竜の子太郎」の元話となった「犀龍と泉小太郎」の伝説があり、その後犀龍と小太郎はこのお堂の奥の斜面の中腹の洞窟に篭り、安曇野を見守ったという言われています。
コロナ禍前までは、毎年5月最終日曜日に観音橋南の高瀬川河川敷で「観光草競馬」が行われていましたが、元々は仏崎観音寺の奉納草競馬で、4月28日の縁日の草競馬には安曇野と水内郡一帯から馬と人が数多く集ったといいうことです。
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